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  宮古島の歴史
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宮古島の歴史・宮古島キッズネット

産業の歴史

教育・文化の歴史 災害の歴史

1317年 
文保元年  鎌倉時代
宮古の人が中国温州に漂着(ひょうちゃく)。 このことは、中国元の時代の史書に「蜜牙古(みやこ)」と記録され、宮古の地名がはじめて歴史書にあらわれました。
このころ、宮古には多くの豪族(ごうぞく)がおり、それぞれ争そっていました。
1365年    
正平20年   室町時代
目黒盛(めぐろもり)が与那覇原軍の主長、佐多大人(さたうぶんど)を滅ぼし、宮古全島を統一しました。
目黒盛は島民から豊見親(とぅゆみゃ)とよばれ、これより豊見親の時代となりました。
1390年   
元中7年   室町時代
与那覇勢頭豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)が琉球を統治(とうち)していた中山の察度(さっと)王に拝謁(はいえつ)し、宮古の主長になりました。
1474年  
文明6年  室町時代
仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)が琉球の中山(王様)にみつぎものを持って拝謁(はいえつ)し、宮古の主長になりました。
1500年 明応9年  室町時代
仲宗根豊見親が漲水御獄(はりみずうたき)の石垣をきずきました。
仲宗根豊見親が八重山をおさめていたオヤケアカハチとの戦いで勝ち、琉球の尚真王から宮古と八重山の頭(かしら)に任命されました。
1522年 大永2年  室町時代
仲宗根豊見親、与那国の鬼虎(おにとら/うにとら)をせいばつしました。
1525年 大永5年  室町時代
蔵元(琉球王の行政事務所)ができました。
1535年 天文4年  室町時代
  宮古は平良の頭(かしら)である仲宗根玄屯と、下地の頭の真普武殿のふたりによる二頭制となりました。
1583年 天正11  安土桃山時代
洲鎌の栄河氏真栄が、下地の頭となったとき、妻の稲石(いないし)が宮古上布のもととなる織物、綾錆布(あやさびふ)を織り、 尚永王に献上(けんじょう)しました。 これが宮古上布の始まりです。
1597年 慶長2年  江戸時代
甘藷(さつまいも)が宮古に伝えられました。 (砂川氏旨屋、長真氏昌屋、河充氏真逸らが中国から持ち帰ったといわれています。)
1609年 慶長14年  江戸時代
島津藩(薩摩(さつま)、今の鹿児島県)による琉球攻めがはじまりました。
島津藩は樺山久高を琉球征伐(せいばつ)のために派兵し、薩摩軍による支配がはじまります。
1611年 慶長16年   江戸時代
砂川の頭に砂川間切をおき、宮古は三頭制となりました。
1619年 元和5年  江戸時代
各村に村番所ができました。
村の女性が一定期間機織り(はたおり)をさせられたことから,村番所を宮古の言葉で上布(ブン)を織る家、ブンミャーと呼びました。
1629年 寛永6年   江戸時代
  琉球王の命令で、宮古にも役人が交代で勤務する「在番(ざいばん)」制度がはじまりました。
1636年 寛永13年  江戸時代
  宮古島や八重山などの先島で、戸口調査(すべての家をたずねて、年齢や人数などの家族構成を調べること)が行われました。 
これは次の年にはじまる人頭税(じんとうぜい)の準備のための、戸籍(こせき)調査といわれています。
1637年 寛永14年   江戸時代

人頭税制度がはじまりました。 
15歳から50歳までの島民は全員税金を払わなければなりませんでした。 
男の人は農作物を、女の人は織物(おりもの)をおさめるために、島の人々はとても苦労しました。 
また荷川取(にかどり)にある人頭税石(約143cm) が、税金を払い始める身長の計測(けいそく)につかわれた、との説もあります。

1659年 万治2年  江戸時代
  宮古上布が年貢(ねんぐ)の一部となり、島の女性たちがとても苦労するようになりました。
1667年 寛文7年  江戸時代
宮古島で大地震があり、島の一部では地盤(じばん)が90cm沈下しました。
1678年 延宝6年   江戸時代
過酷(かこく)な人頭税にたいして、多良間の農民たちが抗議(こうぎ)をしました。
1686年 定享3年   江戸時代
川満村と佐和田村が、人頭税に抗議する農民の集会を行いました。
1714年 正徳4年   江戸時代
嘉手苅村と大浦村が、人頭税に抗議する農民の集会を行いました。
1715年 正徳5年   江戸時代
大野山、野田山造林が行われました。
1716年 享保1年   江戸時代
保良村と野原村で、人頭税に抗議する農民の集会を行いました。
1744年 延亨1年  江戸時代
詰医者(つめいしゃ)制という制度がはじまり、久場里之子親雲上が琉球王府から派遣(はけん)されました。 3年間滞在し,その後は2年交代制になりました。
1771年 明和8年   江戸時代
  明和の大津波。 大地震(マグネチュード7.4程度)による大津波が宮古島をおそいました。
友利、砂川、新里、宮国の4っの村で人家が流され2、548人が死亡しました。
1797年 寛政9年 江戸時代
5月17日、池間島の八重干瀬(ヤビジ)で、イギリスの探検船、プロビデンス号が座礁(ざしょう)しました。 
船長のロバート ブロントンをはじめ75名の船員はみな無事でしたが、舟は沈没して使えなくなりました。 幸いなことに伴走船がいたので、全員その船に乗り移り、物資補給(ほきゅう)のために宮古島を訪れました。 
宮古島の人たちは、船が出発するまでの6日間、水をはじめ食料や薪(まき)などを差し入れました。
宮古島の人々の親切な支援(しえん)はブロートン船長を感動させ、1804年に出版された航海日誌を読んだヨーロッパの人々のあいだで、「宮古島には、素晴らしい人々が住んでいる」 と話題になったそうです。
(プロビデンス号物語は、こちらで読むことができます。
1852年 嘉永5年   江戸時代
子年(ねどし)の大飢饉(ききん)のため、約 3,000人が死亡しました。
1855年 安政2年   江戸時代
役人のきびしい税の取立てに抗議するため、多良間島の農民が直接首里の王府に訴えました。
1871年 明治4年  明治時代
宮古島の年貢(ねんぐ)船が、台湾に漂着(ひょうちゃく)しました。  
そのとき現地の人に54人が殺害され、大変大きな事件となりました。 また
3人がおぼれて死亡し、12人が無事に島にもどりました。
1873年 明治6年  明治時代
7月9日、ドイツ商船ロベルトソン号が台風のため上野の宮国沖で座礁(ざしょう)し、宮古の人々は乗組員8人を救助 しました。
1876年 明治9年  明治時代
ドイツ皇帝ヴィルヘルム 1世が軍艦を宮古島に派遣(はけん)し、博愛記念碑として知られるドイツ国民救済感謝碑を建てました。
1879年 明治12年   明治時代
明治政府は沖縄に廃藩置県(はいはんちけん)を公告し、沖縄県となりました。
1880年 明治13年  明治時代
宮古島役所が開設されました。
1882年  明治15年  明治時代
  平良小学校が創立されました。  
1893年 明治 26年 明治時代
  人頭税廃止のために、宮古島の農民代表、平良モーシーと西里カマ、新潟出身の中村十作と那覇出身の城間正安が上京しました。 4人は新聞社に行き宮古島の実情を訴え、国会に「沖縄県宮古島島費軽減及島政改革請願書」を提出しました。
1887年 明治35年  明治時代
  人頭税廃止運動が起こりました。
   
  最初の宮古郡連合運動会が開かれました。
(琉球大学 戦前の沖縄県における運動会の歴史より)
 
1902年 明治35年  明治時代
宮古郡織物組合が設立されました。    
1903年 明治36年  明治時代
人頭税が廃止されました。  
地割制を廃して、土地の私有制となりました。 
農民は負債(ふさい)整理のため土地を売り始めました。
先島に地租条例(ちそじょうれい)、国税徴収法(こくぜいちょうしゅうほう)が適用され、本土と同じ条件で税金を支払うようになりました。  
先島でも徴兵制度(ちょうへいせいど)がはじまりました。
1905年 明治38年  明治時代
久松五勇士が、「バルチック艦隊みゆ」を通報しました。
日露戦争のとき、日本軍はロシアのバルチック艦隊の動きを警戒していました。 1905年5月25日、バルチック艦隊が宮古島の東側を北上しているという情報が宮古島の行政官に入りました。 本土の軍隊と連合艦隊に報告することになりましたが、電信局は石垣島にしかなかったので松原と久貝に住む漁師 5人が、石垣島まで約100Kmをサバニで15時間かけて石垣島にわたり、さらに陸上を5時間かけて電信局に着き電信を送ることができました。
しかし、電報は多くの中継点を経由したために、連合艦隊に届けられたのは、信濃丸という船が発信した 「敵艦見ゆ」の報告より1時間後だったので、残念ながら評価されませんでした。
ところが、昭和時代になってこの話が中学の国語の教科書にあたる中等国文教科書に 「遅かりし一時間」 として紹介されたことで、漁師たちの勇気ある行動が沖縄県知事等から表彰され、五勇士として有名になりました。  
1908年 明治41年  明治時代 
宮古・八重山両郡民の選挙権獲得(せんきょけんかくとく)運動がおきました。
宮古は平良村、城辺村、下地村、伊良部村の4ヶ村となりました。
1913年 大正2年  大正時代 
海底電信が開通しました。  
1915年 大正4年  大正時代 
宮古で初の新聞ができました。
宮古電灯株式会社が設立され一部に電灯がつきました。
1919年 大正8年  大正時代
コレラが伝染しました。 患者数は約2、000人、900人以上が死亡しました。
1920年 大正9年  大正時代
宮古島がはじめて本土並自治体となりました。
第一回国勢調査が行われ、宮古の人口は 5万3千人あまりでした。
1920年 大正9年  大正時代
台南製糖宮古工場(現沖縄製糖)ができました。
1924年 大正13年   大正時代 
平良村が平良町になりました。
1928年 昭和3年  昭和時代
県立第二中学校宮古分校が設立されました。
1929年 昭和4年 
県立第二中学校宮古分校が独立し、宮古中学校となりました。
1931年 昭和6年 
8月9日 風速60mの大風により、学校11校、住宅 3、717戸が壊れました。 
1936年 昭和11年  
宮古郡町村組合立宮古高等女学校設立(昭和15年県立に)
1937年 昭和12年 
  宮古島測候所(そっこうじょ)ができました。 
1938年 昭和13年 
6月10日 宮古島北北西沖で地震。 平良港に1.5mの津波がおしよせました。
   
1940年 昭和15年
伊良部丸遭難(そうなん)し、この事故で70人が死亡しました。
1944年 昭和19年
先島集団といわれる宮古島守備部隊が、次々と宮古島に来ました。(陸軍28,000人、海軍2,000、総兵力30,000人)。
非戦闘員(ひせんとういん)だった島の人々を台湾、九州へ約10,000人移住させる強制疎開(そかい)も行われました。
1945年 昭和20年
イギリスの艦隊が先島に対し艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を行いました。
平良町内は空襲(くうしゅう)され、町内の大半が焼失しました。
米国海軍の進駐(しんちゅう)開始と同時に軍政がしかれました。
1946年 昭和21年
  宮古郡会が開かれました。
第一回通貨交換がおこなわれ、旧円からB軍票とかわりました。
宮古中学校に農業科と海洋科ができました。
1947年 昭和22年
  平良町が、新しくできた市制という制度により、平良市となりました。
  7月1日、城辺村が城辺町になりました。
1948年 昭和23
  市町村長、議会議員の一般有権者による選挙が行われました。
婦人参政権がはじまり、平良市では初の婦人議員2人が誕生しました。
旧B軍票から新B軍票に交換する第2回通貨交換がおこなわれました。
上野村が下地村から分かれました。
1948年 6・3・3制の新学校制度がはじまりました。
農林高校と水産高校が独立して、それぞれが新しい高校となりました。
1949年 昭和24年
下地村が下地町になりました。
1950年 昭和25年
6月23日、瞬間最大風速70mの台風エルシーが宮古島をおそい、死者25人、行方不明10人、負傷者39人、住宅1、315戸が破壊されました。
 

それまでの宮古民政府が宮古群島政府に変わりました。 これは戦後の琉球政府が発足するまでの約1.5年間 (1950年11月〜1952年4月)だけ存在しました。

1950年 沖縄本島では琉球大学が開校しました。 
1952年 昭和27年
宮古女子高校が宮古高校と合併(がっぺい)しました。
1955年 昭和30年
那覇と宮古島を結ぶ民間航空路がはじめて開設されました。(CAT航空)
1956年 昭和31年
  宮古空港が開港しました。
1957年 昭和32年 
 

宮古区裁判所が設置されました。

1957年 昭和32年
宮古・那覇間 と 宮古・八重山間の無線電話が開通しました。
1958年 昭和33年

3月11日、石垣島北西部で発生したマグネチュード7.2の地震により、宮古島でも死者1名ほか多くの被害が出ました。

1960年 昭和35年
宮古製糖による操業(そうぎょう)が開始されました。

1960年

昭和35年
9月15日、台風サラが宮古島をおそいました。 最大風速 53m、最大瞬間風速は64・8mでした。
1963年 昭和38年
70年来の大干ばつになりました。 1月15日〜5月31日までの137日間雨が降りませんでした。 この年のさとうきびの収穫高はいつもの年の50%以下で、10アールあたり2・2トンでした。
1966年 昭和41年

宮古島の全ての島が電化され、電気製品が使えるようになりました。

  昭和41年
9月4日から6日にかけ大型台風コラ (第二宮古島台風) が宮古島をおそい、大きな被害が出ました。 最大風速60・8m、最大瞬間風速85・3mで、日本の観測史上最大の風速でした。
1967年 昭和42年
テレビ放送がはじまりました。
1968年 昭和43年
宮古産業技術学校(後の宮古工業高校)が開校しました。
1968年 昭和43年

9月22〜23日、第三宮古島台風(台風デラ)が宮古島をおそい、大きな被害が出ました。 最大風速54・3m、最大瞬間風速79・8m。

1970年 昭和45年
戦後初の衆・参議院選挙がおこなわれました。
1971年 昭和46年  
異常干ばつで、3月15日から9月16日まで186日間雨が降りませんでした。
1972年  昭和47年
5月15日、沖縄が本土復帰しました。
第四回通貨交換(ドルから円へ)1ドル=365円
復帰後初の知事、県議選挙、衆議院選挙が行われました。
NHKラジオの第一放送と第二放送が、沖縄本島と同時に始まりました。
1973年 昭和48年
池間島への海底送水管による給水工事完成
1974年 昭和49年
多良間空港開港
来間島への海底給水工事完成.
1975年 昭和50年
沖縄・宮古間海底ケーブルがしかれました。
(電話900回線、カラーテレビ2回線)
沖縄本島本部町では海洋博覧会が開かれました。
1976年 昭和51年
 

宮古病院新館ができました。
NHKのカラーテレビ同時放映がはじまりました。
宮古島の電話がダイヤル式になりました。

1977年 昭和52年
県立宮古養護学校が開校しました。
1977年 昭和52年
宮古島の地下ダムの開発がはじまりました。
1978年 昭和53年
第一回宮古の産業まつりが開催されました。(11月11日)
宮古島空港の滑走路が 1,500m になりました。(12月1日)
B737ジェット機が就航(しゅうこう)しました。 
沖縄県の交通ルールが本土と同じになりました。
1979年 昭和54年
下地島空港が開港しました。(7月5日)
1980年 昭和55年 
県立宮古少年自然の家が完成しました。 (7月11日)
1980年 昭和55年 
大神島に海底送電がはじまりました。 (4月11日)
大神島に上水道の送水がはじまりました。(7月17日)

1982年

昭和57年
伊良部村が町になりました。(4月1日)
大神漁港の開港式がおこなわれました。 (8月19日)
第6回県民育樹祭が宮古島の大野山林でおこなわれました。 (10月22日)
1983年 昭和58年
フェリーたらまが就航しました。 (2月5日)
池間漁港が開港しました。 (2月8日)
宮古空港滑走路が 2,000m になりました。 (7月1日)
1985年 昭和59年
  第1回全日本トライアスロン宮古島大会が開催されました。 (4月27日)
1986年 昭和61年
県立伊良部高等学校が開校しました。
1987年 昭和62年
平良市立南小学校が開校しました。
1988年 昭和63年
  宮古島地方を集中豪雨がおそいました。 (4月28日)
多良間島では、14〜17時の3時間に日本観測史上最高の383mmを記録しました。
1989年 昭和64年 平成1年
  昭和時代が終わり、元号が平成となりました。 (1月8日)
宮古空港から、東京の羽田空港への直行便が就航しました。 (7月)
  平良市総合博物館が開館しました。 (11月1日)
1990年 平成2年
  平良市立東小学校が開校しました
1991年 平成3年
  古馬が沖縄県の天然記念物に指定されました。
1992年 平成4年
  池間大橋が完成しました。
1993年

平成5年

  プロ野球の宮古島キャンプが初めて行われました。(オリックス・ブルーウェーブ) 
1993年 石造建築 仲宗根豊見親(なかそねとゆみ)の墓、知利真良豊見親(ちりまらとゆみ)の墓などが豊見親(とぅゆみゃ)の墓として国の重要文化財に指定されました
宮古島のパーントゥが国の重要無形民族文化財に指定されました。
琉球放送と沖縄テレビが、宮古島でテレビ放送を開始しました。 (12月16日)
1995年 平成7年
宮古島と来間島を結ぶ、来間大橋が完成しました。
1996年 平成8年
  宮古島で携帯電話が使えるようになりました。
1996年 上野村にドイツ文化を紹介するテーマパーク、 「うえのドイツ文化村」 が完成しました。
2000年 平成12年
沖縄サミットのために沖縄を訪問したドイツのゲアハルト・シュレーダー首相が宮古島を訪問しました(7月21日)。 これは、127年前にドイツ商船の乗組員を宮古島の人々が助けたことなど、宮古島とドイツとの特別なつながりがあるためです。
14年間工事が続けられた地下ダムが完成しました。
2001年 平成13年
48年間営業を続けていた、宮古島でただ一つの映画館 国映館が閉館しました。
2003年 平成15年
9月10日、大型台風14号が宮古島をおそいました。
最大瞬間風速 74.1m、中心気圧912ヘクトパスカルという超低気圧を記録。 最大瞬間風速は歴代4位の記録でした。
2004年 平成16年
宮古農林高校の環境班による地下水の安全を守るための研究が、スエーデンのストックホルムで開催された「第8回ストックホルム青少年水大賞」国際コンテストでグランプリを受賞しました。
  1月24日 天皇 皇后 両陛下が宮古島をはじめて訪問しました。
2005年 平成17年
3年半ぶりに宮古島に映画館が復活しました。
  平成の大合併が実施され、平良市、城辺町、上野村、下地町、伊良部町の5市町村が合併し、あらたに宮古島市が誕生しました。 (10月1日)
2006年 平成18年
サトウキビの糖蜜を原料としたバイオエタノール(植物性燃料)製造施設ができ上がり、生産を開始しました。

主な資料のリスト
  沖縄県公文書館 琉球文化アーカイブ、および宮古島の市民歴史研究者のアドバイス
   

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