宮古島キッズネット



宮古島市の漲水御嶽の近くに、「ネフスキー通り」 と呼ばれる長さ約 90mの石畳の坂道があります。
石畳の路を上っていくと、通りの終わりの右側にネフスキーの宮古島についての研究を称える石碑、「宮古研究の先駆者 ニコライ・A・ネフスキーの碑」 があります。
 

石碑があるだけでなく、通りの名前にもなっている ニコライ・A・ネフスキー (Nikolai Aleksandrovich Nevsky) はどこの国の人で、宮古島にとってどのような働きをした人なのでしょうか?
ネフスキー通り ネフスキー通り
宮古島のネフスキー碑
Photo by Kaori Miura
 
まずは、ネフスキーの生い立ちを調べてみましょう
 
1892年 (誕生)
ネフスキーは、1892年3月1日 (2月18日生まれとの記録があるのは、当時ロシアで使われていたユリウス暦によるものです) ロシアの首都 モスクワ市から 300kmほど北のボルガ川流域の都市、ヤロスラーヴリ市 (Yaroslavl 57.63511, 39.8897) で生まれました。
ネフスキーは 4歳までの間に両親が死亡したので、幼いときには祖父母に、祖父母の死後は叔母などにより ルビンスク市 (Rybinsk) で育てられました。 
(ルビンスク市 公式ホームページより)
 
1909年 (大学入学)
ルビンスク市にある進学のための学校、ギムナジウム (ドイツで始まりヨーロッパで広く採用された、中高一貫の中等教育機関のこと) を卒業後、サンクトペテルブルク工科大学に入学しました。
 
1910年 (日本語の勉強を始める)
工科大学を退学して、サンクトペテルブルク大学 東洋言語学部に入学します。 専門は日本語と中国語でした。 1914年卒業。
 
1913年 (初めての日本訪問)
日本語の研修のために、2ヶ月間長崎に滞在しました。 日本の記録の中には、この時東京に行ったとの記述もあります。
 
1915年 (2度目の日本訪問)
ネフスキーは、ペテログラード大学より2年間のインターンシップとして日本語を研究するために日本に来ました。
(サンクトペテルブルク大学とペトログラード大学について:
1724年、ピョートル皇帝により設立されたサンクトペテルブルク大学ですが、名称は時代によって変更されました。 帝政時代には、サンクトペテルブルク大学、第一次世界大戦勃発により、ペテルブルク市がペトログラード市になったために、ペトログラード大学、ロシア革命によってレニングラード大学となり、1991年のソ連崩壊後、サンクトペテルブルク国立大学となりました。)
 
1917年 (ロシア革命で帰国できなくなる)
ロシア革命がおき、内戦状態が長く続いて本国からの送金も途絶えました。 帰国するてだてが無くなり、そのまま日本で研究を続けることになりました。
 
1918年 (小樽でロシア語教師となる)
北海道の小樽高等商業高校 (現在の小樽商科大学)のロシア語教師として就職。 この時期、ネフスキーは北海道のアイヌ語の研究を始めました。
 
1920年 (萬谷イソとの出会い)
この年ネフスキーは、収集した資料の整理及び助手として、当時 19歳の萬谷イソを研究者仲間に紹介されます。 
イソはとても能力のある女性で、仕事も効率よくこなしていたそうです。 イソとは 2年後に結婚します。
 
1920年 (宮古島の人との出会い)
宮古島出身の稲村賢敷 (いなむら・けんぶ) と出会います。 稲村から宮古島の特徴ある方言の話を聞いたネフスキーは、宮古島の方言に強い興味をいだき、研究したいと思うようになりました。
 
 ここで寄り道:

稲村賢敷 (いなむら・けんぶ) は、1894年宮古島の平良で生まれました。 東京高等師範学校 (現在の東京教育大学) の歴史学科を卒業しています。 1920年、高等師範学校を卒業後に研究生活をしていた頃、 2歳年上のネフスキーと運命的な出会いがあり、親交を深めました。

当時、小樽高等商業学校の講師をしていたネフスキーは、受け持っていたロシア語の講義数が少なかった (週 7時間から 10時間程度) こともあり、休暇のたびに東京に行っていたそうです。
こうして東京滞在中に、郷土史研究仲間から稲村を紹介されて宮古島の言葉と多彩な地域文化についてたくさん聞くことができました。
 
1921年 (金田一京助や柳田國男との出会い)
この年の年末から 1922年の新年にかけて、ネフスキーは東京に滞在しました。 この時、日本の有名な言語学者である金田一京助や柳田國男、折口信夫、さらに東京帝国大学 (現在の東京大学)で金田一京助の学友だった、言語学者で沖縄研究の父として知られる那覇出身の伊波普猷 (いは・ふゆう) など多くの言語学者や民族学者と知り合い、本格的な研究を開始します。
ネフスキーは日本語をとても上手に話すだけでなく、日本語を書くのも得意で履歴書なども全て自分で書いていたそうです。
 
1922年 (大阪外語学校 講師)
ネフスキーは、 1921年に新設された大阪外語学校 (現在の大阪外語大学)のロシア語講師として就任しました。 この後、京都大学の講師も兼任します。
 
1922年 (萬谷イソと結婚)
この年、北海道の積丹(しゃこたん)町の網元 萬谷幸八郎の娘で、ネフスキーの助手を務めていた萬谷イソと結婚しました。
ニコライ・ネフスキー 左の写真の 撮影日は記載されていませんが、1929年にネフスキーが一人でソ連に帰国する直前に、神戸のソ連領事館で結婚登録をしているので、この写真もその前後に撮影された可能性があります。

萬谷イソの名前に関しては、ロシアにある資料でもいくつかの異なる表記がされています。
記録の中で一番多く使われているのが、萬谷を “よろずや”、イソを本人も使っていた “磯子 (いそこ)” で記録されていることが多いようです。
ロシア語のアルファベットをそのまま英語表記にしていくと Erodzuya, Isoc となります。


Photo Courtesy:
Ярославское историко-родословное общество
 
 
1922年 (台湾の少数民族)
台湾北部の少数民族 (人口約7,000) のツオ族の言語および民俗学的研究のために、台湾を訪問しました。
 
1922年 (宮古島を訪問)
ネフスキーは稲村賢敷とともに初めて宮古島を訪れ、島の各地をまわり方言の収集と民俗学的な調査を行いました。
 
1925年 (北京訪問)
1925年、ネフスキーは西夏語の研究のために北京を訪れます。 当時は誰も解読することのできていなかった、西夏語の解読のために研究を始めました。 北京に行ったのは、西夏文字の写本を手に入れるためでした。
 
 ここで寄り道:

西夏語とはどのような言葉でしょうか?
西夏語とは、タングート語ともいわれる 12世紀から13世紀にかけて内モンゴル地方で繁栄した謎のチベット系民族の王国、タングート族の約6000語から成る文字のことをいいます。
ところがタングート王国は、13世紀初め頃 (1227年か?) ジンギスカンの蒙古軍に攻められ、国民がちりじりに散ってしまったので、西夏文字を子孫に伝えることも無く、さらに読める人もいなくなって、「謎の文字」 とか、「解読不能文字」 といわれていました。 
この経緯は、シルクロードを扱った物語には必ず登場する カラホト (黒い城)での壮絶な戦いに描かれています。

このように、ミステリアスで浪漫あふれるタングート文字の存在を知った “言葉の天才” ネフスキーが、その解読に情熱を傾けたのもうなずけます。

しかし謎の文字、解読不能と言われた西夏文字を完全解読したのは日本人でした。1962年、京都大学の西田龍雄教授がすべての西夏文字の解読に成功しています。
 
1926年 (第2回 宮古島での調査
ネフスキーの宮古島における2回目の調査が行われました。
 
1928年 (第3回 宮古島での調査)
ネフスキーの宮古島における3回目の調査が行われました。 ネフスキーは 6年間に、宮古島以外にも琉球諸島や台湾に住む少数民族の言語と民族史を研究しました。 
また、この期間にたくさんの雑誌や新聞に彼の研究内容を発表しました。 
 
1928年 (娘のエレ-ナ誕生)
この年の 5月 3日、娘のエレーナ・ネフスカヤ(ネリー)が生まれました。
 
1929年 (宮古島での研究結果の発表)
雑誌「民族」に宮古島での調査・研究をもとにして
① 「月と不死」
② 「宮古島の子供遊戯資料」
③ 「アヤゴの研究」 などを発表しました。 (アヤゴは、古い民謡などをさす “アヤグ”のことです。)
 
ここで寄り道:

ネフスキーの調査方式や資料の作り方は、当時の日本の言語学者や民俗学研究者からみて、とても面倒でまどろっこしいものに見えたようです。 ネフスキーは言葉の発音記号の詳細な書き込みに加え、タイムスタンプといわれる収集日時から、話してくれた人の情報や民俗学的観点を含む多くの情報をノートに記録していきました。

そのためネフスキーの記録には、現代の研究者が宮古島に来ても手に入れることのできない、宮古島では既に失われている貴重な情報が多く含まれています。

ネフスキーの調査資料で忘れてならないのが、今で言う “マルチ人間” 的な才能を持った妻イソの存在です。 イソは、優れた琵琶奏者でマンドリンも弾き、絵画が得意な才能あるアーティストでした。 
しかも、高い事務処理能力をもっており、効率よくネフスキーの調査データをまとめていたと言われています。
ネフスキーの調査・研究の多くが失われたとはいえ、後世に多くの研究報告が出版できているのも、イソの高いデータ処理能力により可能になったものが多い、と考えられます。
 
1929年9月 (ネフスキーの帰国)
ネフスキーは帰国が認められましたが、家族を連れて帰ることが認められなかったので、妻と娘を残して、単身(ひとりで)帰国しました。
帰国後、ネフスキーはレニングラード州の州都、サンクト・ペテルブルク市のレニングラード国立大学や東洋学研究所、国立エルミタール美術館.などで働いていました。 多くの場所で働いていたのは、当時のソ連の社会情勢が不安定で、必要な収入を得ることがとても難しかったためといわれています。
 
1933年 (イソとエレーナ ソ連に行く)
東洋学研究所のスタッフなどの請願活動もあって、ネフスキーは妻と娘を呼び寄せることを許可され、イソとエレーナはレニングラードに向います。
ソ連に着いたイソは、以前同様、ネフスキーの資料の整理と日本語の教師もするなど、忙しい毎日だったようです。
 
1935年 (博士号)
ネフスキーは、この年レニングラード国立大学より言語学博士号を取得しました。
 
ソ連での親子3人の生活はわずか4年でした。
そのなかで撮影された、貴重な1枚の記念写真です。

エレーナの瞳に、時代の緊張感が現れています。

 
Photo Courtesy:
Ярославское историко-родословное общество
 
1937年 (逮捕そして銃殺刑)
連の指導者スターリンによる、東洋学者や東洋で学び帰国したロシア人研究者および、日本人を含む東洋人の教師や講師に対し、粛清(しゅくせい)が始まりました。
粛清とは、政府に反抗する者に対して死刑などの厳しい判決を行い、反対するものを取り除いていくことです。
1937年10月4日、ネフスキーは何も不正なことをしていなかったにもかかわらず、スパイ容疑で逮捕されました。 そして拷問をうけ裁判なしで、当時 「RSFSR 58 - 1A刑」 と言われた国家反逆罪の宣告を受け、11月24日に銃殺されました。 45歳でした。
ニコライ・ネフスキー
また妻のイソも 4日後の10月8日に、日本のためにスパイ活動をしている、との容疑で逮捕されました。
イソは拷問されても容疑を否認し続け、官憲の作った調書を最後まで認めず、署名を拒否しました。
夫の立場を守り、無実の者として最後まで尊厳を失うことなく毅然と生きたイソは裁判されることもなく、11月24日にレニングラードのKGB本部で夫とともに銃殺刑になりました。 イソはこの時 35歳でした。
 
Photo Courtesy: Ярославское историко-родословное общество
このネフスキーとイソの写真はいつ、誰によって切り離されたのでしょうか?

ネフスキーの逮捕当時、東洋学研究者たちの監視体制を強化するために、東洋研究所の建物のひとつをアパートにして、研究者と家族が集められていました。 ネフスキーやイソの逮捕当時の話は、このアパートの住人が記録したメモで、かなり具体的に分かっています。

この写真についてのエピソードから、イソの夫に対する愛情の強さと、対外諜報部(後のKGB) の横暴にも恐れず立ち向かう毅然とした姿勢を知ることができます。 この写真については、娘のエレーナの話しにもありますが、ネフスキーの逮捕後、対外諜報部員が家宅捜索をしたときに見つけ、ネフスキーの部分(写真右下) だけをハサミで切り取り持っていこうとしました。
それを見たイソは、「私の夫の写真を持って行かないで」 と猛烈に抗議をしたので、対外諜報部員もイソの剣幕におされて、返したということです。
 
 
 ここで寄り道:

ネフスキーには、ある有名な日本語研究者でユダヤ系ロシア人の友だち K がいました。 家族ぐるみの付き合いで、旅行にも一緒に出かけるほどでした。
しかし、この友人 K はじつは NKVD (ソ連国家保安委員会 対外諜報部)に協力するスパイでした。 ネフスキーが銃殺された後、多くの研究資料が失われたと言われていますが、当時 8歳だった娘のエレーナの記憶では、Kが両親がいなくなって数日後にネフスキーの家に来て、資料を調べていたと言います。
この時、宮古島に関するいくつかの資料も失われた可能性があります。

娘のエレーナはソ連崩壊直後の1991年、両親を裏切ったのが K だったことを KGB(国家保安委員会)の資料で知りました。
なお、K が本当にNKVDの協力者であったかについては、今のところエレーナの証言のみで客観資料が公開されていないためと、K を師とする人々も日本にいることから、宮古島キッズネットでは、イニシャルのみの記載にとどめます。

この時代については、ネフスキーの友人や親族だけでなく、同時期に粛清された東洋研究者の家族などの手記がとても多く残っています。
 
1938年 (孤児となったエレーナ)
両親が処刑されたので、娘エレーナはネフスキーの親友で日本の研究者だったニコライ・コンラッド夫婦に引き取られました。 しかしさまざまな理由から、その後いくつかの家族を転々とすることになります。
 
1948年 (エレーナは医者に)
娘のエレーナは、レニングラード大学の医学部に入学。 その後、小児科の医師になりました。
 
1957年 (名誉回復)
ネフスキーが1937年当時、日本のスパイ活動に関与していたとして処刑された件に関し、ベラルーシ軍管区の軍事裁判所による再審査が行われました。
その結果、関与の事実は無く、処刑は当時の国家保安部の権力の乱用によるものであったことを認め、1957年11月14日、20年ぶりに名誉が回復されました。
 
1960年 (西夏語研究資料の公開)
ネフスキーが1925年から死の直前まで続けていた西夏語研究資料のうち、見つかった部分をまとめた 「タングート語辞典」 が出版され高い評価を受けました。

タングート語辞典は2冊からなっており
1 が 602ページ
2 が 684ページ
の合わせて1,286ページあります。

ただ、関係者は 「失われた資料のほうが、残った資料よりもはるかに多いようだ。」 と話しています。

 
ニコライ・ネフスキー
Original Photo Courtesy: Рыбинская неделя
 
1962年 (レーニン賞 受賞)
1960年に発表された西夏語研究が認められ、レーニン賞を受賞しました。
 
1972年 (アイヌに関する出版)
この年、アイヌに関する民俗学的研究をまとめた本が出版されました。 
(ページ数: 175 出版数: 2,000部)
 
1972年 (宮古島に関する出版)
ネフスキーが3回宮古島を訪れ収集した、宮古島の方言と民俗学的な記録のうち、この当時まで残っていたものが 「宮古島の民俗学的研究」 として出版されました。
(ページ数: 192 出版数: 7,000部)
 
1981年 (台湾のツオ族に関する出版)
1922年から調査をおこなっていた、台湾の少数民族 ツオ族の民俗学的報告書が出版されました。 (ページ数: 292 出版部数: 950部)
 
1989年 (エレーナの日本訪問)
エレーナが56年ぶりに日本を訪れました。 この時、父が教えていた小樽商科大学のほか、北海道各地に暮す母イソの親族とも会いました。 
 
1991年 (死亡診断書)
1991年のソ連崩壊とともに、過去の色々な資料を関係者が見ることができるようになりました。 それまでは、ネフスキーとイソの死亡した日付についても、長い間明らかにされていませんでした。 KGBに保管されていた死亡診断書では、ネフスキーは1945年2月14日に心筋梗塞で死亡し、妻のイソは1945年の12月12日死亡となっていたことがわかりました。
もちろんこの診断書は事実と異なるもので、この後娘のエレーナは父母の死亡日と死にいたる経緯を初めて知ることになります。
 
1992年 (ネフスキー生誕100年)
ネフスキーの家族や彼の優れた研究を知る人々が、生誕100周年を記念して本の出版を計画しましたが、資金不足などで実現できなかったようです。
 
2001年 (宮古島市訪問団)
宮古島市の伊志嶺市長を代表とする18人が、ネフスキーが日本での研究成果をまとめていた サンクトペテルベルグ市を訪問しました。
訪問団は、レニングラード国立大学や東洋学研究所、さらに聖ウラジミール大聖堂や埋葬地など、ネフスキーゆかりの場所を訪れました。
 
 ここで寄り道:

この時の訪問のようすは、娘のエレーナの友だちや親族の人たちが日記形式で細かく記録しており、宮古島からの訪問団のスケジュールとともに、追悼行事の内容などについてもそれぞれ印象が綴られています。
なかには、自分たちがまだ準備が整っていないうちに訪問団が到着してしまい、「日本の人たちがたくさん写真を撮るので、こんな写真が日本の新聞に載ったらどうしよう!と、恥ずかしさでほとんど泣き出しそうだった」 などの素朴で正直な表現もあります。
 
2002年 (娘のエレーナさんも参加した、宮古島での記念行事)
平良市となって55周年の記念行事のひとつとして、平良港近くのネフスキーが歩いたと言われている坂道を 「ネフスキー通り」 と命名し、坂の上に 「宮古研究の先駆者 ニコライ・A・ネフスキー之碑」 を建てました。

右の写真は、顕彰碑除幕式に出席のため宮古島を訪れたネフスキーの娘、エレーナさん(当時74歳)です。

エレーナさんは3月5日に孫娘のヤーナさんと共に到着し、7日の除幕式に参加しました。


Фотографии предоставлены Константин Саркисов (photo provided by Konstantin Sarkisov)
Министерство иностранных дел, Китайская Республика (Тайвань)
Ministry of Foreign Affairs, Republic of China (Taiwan)
2002年 (宮古島教育長のロシア訪問)
2001年の伊志嶺 市長に続き、久貝教育長がロシアを訪問しました。
宮古島の方言の研究のために、ネフスキーが作った資料集 「宮古方言ノート」 の複写本を発行するために、資料を保管するロシア・アカデミー東洋学研究所などと交渉しました。
 
2005年 (宮古方言ノートの複写本配布)
「宮古方言ノート」 のコピー版がロシア側より寄贈されました。 
ネフスキー自身による手書きの1192ページの宮古島方言の記録で、約5000語の方言とその意味がアルファベット順に収録されています。 宮古島市では、宮古島の教育目的で300部を複写本として制作し、学校や図書館に配布しました。
 
 
 
 
ご家族の皆さまへ:
ネフスキーは、宮古島に特別な情熱をもってリサーチをし、ソ連に持ち帰った資料も混乱の革命期にあって、身に迫る危険におびえながらも編纂作業をすすめていました。
ネフスキーの生涯を語るとき、歴史的・政治的背景を含めデリケートな内容も含まれていますので、それらの背景をある程度具体的に説明するために、読者対象を 「中・高生向け」 として編集しています。

ネフスキー物語は、主にロシアで出版されている資料や、直接ロシアの関連ウエブサイトから得られた多くの情報の中から宮古島キッズネットが独自に翻訳・編集し、タイムライン重視でまとめてあります。
 
参考資料:
1. Ярославское историко-родословное общество
(Yaroslavl Historical and Genealogical Society)
2. Институт восточных рукописей РАН
(The Institute of Oriental Manuscripts of the Rossian Academy of Sciences)
3. Из рассказа Елены Николаевны Невской:
(Elena Nikolaevna Nevskoy's Story)
4. Источник: Ленинградский мартиролог: 1937-1938
(レニーングランド殉教史: 1937 - 1938)
5. Института востоковедения АН СССР — ИВР РАН
(Saint Petersburg Institute of Oriental Manuscripts)
6. Рыбинская неделя (Rybinsk Week)
7. Рыбинск, сайт города Рыбинска (City of Rybinsk official home page)
8. Николай Александрович Невский
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9. Министерство иностранных дел, Китайская Республика (Тайвань),
Ministry of Foreign Affairs, Republic of China (Taiwan)
10. 琉球新報 アーカイブ (2002年および、2005年の宮古島市関連記事に関し)
 
 

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